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フォートオールバニの戦い (1709年) : ウィキペディア日本語版
フォートオールバニの戦い (1709年)[ふぉーとおーるばにのたたかい]

フォートオールバニの戦い(Battle of Fort Albany)は、1709年6月下旬(26日ごろ)に、ハドソン湾会社交易所で、ハドソン湾南岸にあるフォートオールバニに、ヌーベルフランス民兵先住民兵がしかけた攻撃である。
==概要==

===ハドソン湾会社設立から戦闘に至るまで===
1670年の、イギリス(当時はイングランド王国)の投資家によるハドソン湾会社の設立で、ハドソン湾沿岸の毛皮交易はかなりの利益をあげていた。1680年代の始めまでには、ハドソン湾に流れ込む川の河口に交易所がいくつも建てられ、川の流域に住む先住民は、交易所に毛皮を持っていき、その見返りとして食料やヨーロッパからもたさられた品々を受け取った。その中には、武器や弾薬、その他様々なものがあった。〔''Statutes, Documents and Papers'', p. 40〕〔Krech, p. 39〕
ハドソン湾会社の繁栄に、ヌーベルフランス当局は警戒を強めた。自分たちが獲得した領地に、イギリスが侵略して来たおかげで、自分たちの毛皮交易とそれによる利益が痛手を受けていたからだ。元々、ハドソン湾近辺での毛皮に関しては、イギリスに寝返ったフランス人が情報をもたらしたせいで、イギリス有利にことが運んでいた〔木村和男著 『毛皮交易が創る世界 ハドソン湾からユーラシアへ』 岩波書店、2004年、25-27頁。〕。ハドソン湾会社は、1686年ハドソン湾遠征:en:Hudson Bay expedition (1686))の開始から、9年戦争北アメリカではウィリアム王戦争)の間、ヌーベルフランスからの侵入者から絶えず交易所を攻撃され、設備を略奪されたり、占領されたり、また、ヨーロッパへ出荷されるはずの毛皮を奪われたりした。9年戦争の末期には、フォートオールバニ(オールバニ川の河口に作られたためこの名がある、現在のオンタリオ州北部)が、唯一の交易所となっていた。〔''Statutes, Documents and Papers'', pp. 40–44〕
スペイン継承戦争(北アメリカではアン女王戦争)が1702年に勃発し、イギリスの交易所であるフォートオールバニの侵略計画が持ち上がった。1709年、フランス人入植者の一団が、陸路でフォートオールバニを攻撃することに決めた。ヌーベルフランス総督であるフィリップ・ド・リゴー・ヴォードルイユもこれに同意し、身銭を切って、彼らのための資金を提供した。資金提供者たちは、奇襲隊が持ち帰るであろう毛皮で、出資分の埋め合わせができると考えていた。〔Lanctot, p. 159〕この軍の指揮はニコラ・ダイユブー・ド・マンテに任された。この人物は、辺境での奇襲を何度も経験した強者で、修羅場を潜り抜けた前歴もあるといわれていたが、ハドソン湾近辺には足を踏み入れたことがなかった。 マンテは、60人から70人のフランス人と30人のカウグナガワ・モホークを招集して出発し、1709年の6月下旬にフォートオールバニの近くに到着した〔Lanctot, p. 159, claims the party was 90; Johnson claims the party was "about 100" with 30 Indians〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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